3人兄妹の末っ子、明治23年生まれの祖母にしごかれて‥‥
秋田市の真ん中、秋田城址の土手下、現在千秋北の丸という地名になっているところで生まれました。
父は高校の教師(生物)、母は小学校の教師の共働き。そこで、留守を預かる明治23年生まれの祖母にしごかれて育ちました。この祖母は、20代の半ばにして、乳飲み子を含む3人の子どもを抱えて未亡人になり、県内の分教場の女先生をしながら3人の子どもを育てた女丈夫。背筋がピンとし過ぎて、誠に怖い存在でした。
長男だった4才違いの兄は、この祖母にとっては大事な跡取りの孫、1才違いの姉は素直な聞き分けのよい子、従って祖母の監視の目は常に、「いく子が男の子だったら‥‥」と嘆きの対象だった私に。
小学校時代にはすでに、運針の練習に加えて、編み針や刺繍針を持たされ、「女一通りのたしなみ」とやらをしつけられた覚えがあります。お転婆の割には、手仕事が好きだったので、これはあまり苦になりませんでしたが、行儀や掃除、これはご勘弁、でした。
幼稚園に入る頃、土崎港の近く、将軍野というところに引っ越し。父が動物園と児童館の主事をしていたので、幼稚園には行かず、父にくっついて毎日のように出勤、動物園と児童館で遊んでいました。
「キンダーブック」、「ワンダーブック」、児童館であかず眺めていたあの雑誌が、今でもなつかしく思い出されます。
<小学校の入学式の日。今はなつかしい、木造校舎の前で>
退屈な時の遊び道具が「知能テスト」。小学校に入ってから、知能指数があまりに高いので、担任の先生がびっくり。しかし、これは幼児期の訓練のたまもの。訓練によって解けるこの「知能テスト」が、まだ教育現場で幅をきかせているのはまったく不可解です。
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