私服通学した中学時代、山歩きに開眼
秋田市立秋田南中学校入学。ベビーブーム世代で、1クラスに60人近くが詰め込まれ、その上16クラスあるというマンモス校でした。
入学するとき、私たちの学年から規準服が設けられました。しかしそのセーラー服を、父は作ってくれませんでした。いわく、「公立学校では、父母に負担を強いる制服は設けられないはず。学校に服装までおしつけられることはない」というのが、その理由。結局私は、卒業間近に、お下がりをもらうまで、私服通学しました。子どものときから、「人と同じ」ということよりも、自分でよく考えて判断しなさい、と言われていたせいか、とくに私服であることを嫌と思ったことはありませんでしたし、学校側も、何も言わなかったように思います。
家事を受け持っていた祖母が高血圧で倒れ、私が家事を受け持つことになり、部活は断念。代わりに、父の課したバイエルの教則本はとっくに終えていたので、念願の電気オルガンを買ってもらい、ピアノ教室に通うことになりました。最初の1年間は、模範的な生徒でした。次々に課題をこなし‥‥。しかし、次第に自分の才能の無さに気づいたのは、ソナチネを終えてソナタに入るころだったでしょうか。あとは惰性で続け、レッスンのたびに先生のだめ出し。練習が嫌になって、ますます曲が仕上がらないというイタチごっこになったのは中学3年のころだったでしょうか。
<しばらくの間は熱中した、ピアノの稽古でしたが……>
中学時代に熱中したのは、読書と勉強! もともと小学校時代から本の虫でしたが、何しろ家にあったのは古典的な本ばかり。中学校に入って読書好きの友だちから次々に本を紹介されて世界が広がり、図書館から借りて読みまくりました。
勉強は、というと、全く動機不純。当時学校ではやる気を起こさせるためか、試験が終わるたびに、8割以上の成績を取った生徒を、1番から順番にずらりと、名前を張り出すのです。今なら大問題になりそうですが、私はというと、生来の負けず嫌い。競争意識から勉強していとしか言いようがないのですが、分からないことを必死で考えたり調べたりして分かるようになった、その快感もあって、机に向かっていたような気もします。
中学1年の担任が、とても個性的な国語の教師。天気がいいと、「さあ諸君、こんな日は、大きな声で歌でも歌いましょうか」と授業はお預け。同級生の家でウサギが増えて困っていると聞いたみんなが、校庭の隅にウサギ小屋を建てて飼ったりもしました。そのクラス1年1組は、「ウサギのクラス」と呼ばれ、中学3年間で最も思い出の深いクラスになりました。今でも結束力は堅く、私が帰省すると、必ずミニ同級会を開いてくれます。
この先生は山歩きが趣味で、1年の秋、秋田のシンボル的存在である太平山登山を企画しました。体力に自信の無かった私でしたが、どうしても行きたくて参加。ところが行程半ばにして雨。ずぶぬれになりながら、予定をはるかにオーバーした山行きでしたが、なんとか落伍せずに行動を共にすることができ、体力に自信が生まれました。
以来、この先生の教え子である先輩の大学生たちと一緒に、夏休みには鳥海山、栗駒山、八幡平、岩木山、岩手山等々、秋田の周辺の山々を歩くことになります。中学生の身で、冷たい川の水に冷やしたビールでのどを潤す快感を味わったのも、この山行きでした。
<八幡平を縦走し、岩場でひと休みの一コマ。左から三番目が私です>
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