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クラブを渡り歩いた高校時代の仕上げは甲子園

 中学3年のとき、受験一色、成績至上主義の教師に反発して(受験に見切りをつけた友人に対する指導などに納得がいかず)、登校拒否気味になりながらも、なんとか卒業。秋田県立秋田高等学校に入学しました。
 もともと旧制中学だっただけに、女子学生はわずか。私たちの学年は女子が倍増した、といっても、1学年540人中、女子は32人でした。女子はさまざまなクラブからモテモテ。

 演劇部、合唱部、剣道部、フォークダンス同好会と渡り歩く毎日。成績は下がる一方。もっとも1年の1学期の中間考査で、自分よりも成績のよい人がこんなにいるんだ、と分かった瞬間に戦意を喪失し、早々と「早稲田の社会学部新聞学科に入れればよい」と目標を設置して理系は捨てていたのですから、結果は明らかです。

 青春を謳歌していた高校2年の秋に母が胃ガンであることがわかり、手術。しかし、スキルス性のガンで、手術したときにはすでに手遅れと分かり、そのままふさがれてしまいました。余命3カ月との宣告、入院していても治療の術もなく、自宅療養することになりました。
 我が家は共働きといっても、父の給料の多くが父の研究(高山植物とトンボ)と本代に消えるため、生活を支えていたのは母の給料でした。家を離れての私学への進学など、とてもできようはずがありません。そこで、私も進路変更を余儀なくされます。

 当時文通していた、1年先輩の初恋の君が広島に行っていたこともあり、一念発起して、当時、一部の女子高生に人気のあった数学者、岡潔教授のいる関西の国立大学に進路変更することにしました。母は医師の診断した余命をはるかに超え、初夏には起きて家の中を歩けるようになっていました。そこで、夏休みの1カ月、京都の予備校の夏期講習に通うことにしました。

 母の看病から逃げたいという気持ちもありましたが、実は本当の目的は、久々に甲子園出場を決めた野球部の応援でした。ところが初戦を突破すれば、という下馬評を破って、野球部は次々に勝ち進み、夏期講習の後半は、ほとんどサボることになってしまいます。準決勝は、私たちは今でも事実上の決勝戦、と言っているのですが、かの原貢監督率いる三池工業が相手。私はすでに夏期講習の日程が終わって、泣く泣く甲子園に心を残して秋田に帰りました。1点差で惜しくも負け、決勝進出ならず。勝利の女神が応援できなかったから負けたのだ、あと1日、私が残って応援していたら優勝していたと、私は今でも信じています。

 余談ですが、その後、原監督の息子、原辰徳が巨人に入団した日から、私はジャイアンツファンであることをやめました。


<キャプテンの一打で一点差を逆転。狂喜するアルプススタンドの応援席。写真が破れているのは、甲子園大会の写真展でパネル展示されたあと、破り捨てられた写真を偶然拾ったからです>

 夏期講習を受講している間は、演劇部の先輩の下宿先にお世話になりました。東本願寺前の仏具屋さんの離れの一間。毎夕出される、京都のお晩菜がおいしく、この一夏で、私はすっかり京都ファンになってしまいました。

 しかし、受験の追い込みの秋には、母は肝臓や喉頭部まで冒されたガンと闘う日々。一家挙げて、母の看病に明け暮れ、東京オリンピックのときに手術して以来1年、初めての体育の日に、母は他界しました。

 もともと、理系をすべて捨てていたのですから、追い込みになって取り返せるはずもなく、奈良の国立大学は失敗。1年浪人するつもりでしたが、周囲の「父さんのそばにいてやって」という説得に抗えず、しぶしぶ、地元秋田大学の、当時の学芸学部を受験。それでも実技で失敗したら落ちるだろうと、音楽科を受けたのが、精一杯の抵抗でした。しかし、予想は裏切られて合格してしまいました。

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