バリケードの中の大学生活から距離を置いて
入学直後から、大学生活に充実感は得られず、再受験を考えて迷いの日々、オルグに来たハンサムな先輩に心惹かれて朝鮮文化研究会に入会しました。当然の成り行きでその系列のセクトに入り、夏休みはセツルメントの活動で、僻地の小学校に。しかし、充実感は得られませんでした。
夏が終わる頃、祖母があっけなく他界しました。父は、私が地元の大学に残った時から、自分が一人でいては、娘たちの将来を束縛することになると、再婚を決意しました。相手が決まり、母の一年祭が終わったら再婚、という段取りになったのですが、祖母は強引に、「それでは遅すぎるから、家のことを覚えるために、毎日通ってほしい」と義母となる人に頼み込みました。義母が通ってきて1週間、家の中の一通りと親戚関係の説明、そして神道のしきたりを伝授し終えたとき、脳溢血で倒れ、そのまま息を引き取りました。気丈だった祖母らしい最期でした。
自由の身になった私は、いよいよ退学の意思を固めたのですが、指導教官の説得で休学することに。バイトして貯めたお金で秋の京都へ。高校時代の友人が住んでいた、京大農学部近くの、吉田の古いアパート(「ちゅらさん」の舞台となっている一風館をもっとぼろくしたような、風情のあるアパートでした)から、毎日文庫本を抱えて、京都の散策三昧の日々でした。
その後、再受験はあきらめ、復学した大学は、自衛隊適格者名簿が作られるという動き、2月10日の「建国記念日の制定」などがきっかけで、バリケードストライキに突入。前後して、「産学共同」、つまり大学の勉強をもっと社会で実用性のあるものに、という動きに反対する学生運動が全国的に広がり、バリケード戦は長期化します。
秋田大学でいえば、学芸学部を教師の養成機関として明確にするために、教育学部へ改編する動きが出てきました。単に名称の変更だけでなく、一般教養や、憲法、教育関係法規などよりも、教材研究、指導法などの技術面が強化されるカリキュラムの変更に、反対運動が高まりました。
その中で、どうしても上意下達的なセクト主義になじめず、また、他のセクトと共闘しようとしない姿勢にも納得がいかず、セクトを離脱。全学的な動きよりも、音楽科の改革に目を向けるようになります。あの瞬間、少しだけ、改革の兆しは見えました。風がそよと吹くのを感じました。しかし、あっけなく決着はつき、大学当局は、学生の批判の対象になっていた教官の移動で矛を納めようとし、学部の改編とカリキュラムの変更は粛々と進められたのです。
闘争が一段落した20才から23才までの3年間は、複雑な恋あり、進路に悩み、まさに青春まっただ中。オーケストラの指導教授が大のハープファンで、ハープを受け持つ学生を求めていました。私は小型のアイリッシュハープの先生が京都に住んでいる、というだけで志願。ピアノ教室を掛け持ちしつつ、足りない分は喫茶店のウエイトレスをしてお金を貯め、休みには京都に出かけてレッスンを受ける、それに熱中することで、迷いを忘れようとしていたのかも知れません。
<ハープの好きだった教授が退官後、ハープの出番はなく、私のパートはもっぱらビオラかティンパニー。多分、モーツアルトの31番を演奏したこのときは、チェロの後ろのビオラのパートのどん尻に>
しかし、絶対に音楽の教師には向いていない、という確信があり、副免許で国語を取得したため、月曜から金曜までは、ほとんど9時から5時まで詰まっている、という学生生活になってしまいました。そのあとバイトをこなし、デイトに飲み会に、深夜ご帰館。糸の切れた凧と言われた大学生活後半の日々です。
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