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職歴行脚しつつ、夢を求めて

 上京して4カ月ほどたったころでしょうか。出社してみると、机も椅子もキャビネットも一切合切なくなっており、まさにもぬけの殻。借金で首の回らなくなった社長が、夜逃げしてしまったのです。

 またまた職探し。編集のおもしろさを知ったものの、出版社に入れるはずもなく、「お見合いサークル」の会社に入って、「出会いマガジン」の編集をすることになりました。といっても、雑誌の申し込みの管理、発送、購読料の管理もこみ、というもの。なにしろ制作費を節約する会社で、旅行ガイドもすべてパンフレットの引用。もちろん、写真もパンフレットから借用する、という安易な本づくりに、やる気がなくなるのは時間の問題でした。

 そのとき、現在の夫が、子どもたちを過疎の村に連れていって、自然体験をさせている「育てる会」の取材に行き、ここの職員になっては、という話をもちかけてくれました。早速面接し、即採用となりました。

 ふだんは月刊で発行している「育てる」という雑誌の編集をし、休日の山歩きなどの野外活動と、夏休み、春休みに子どもたちが過疎の村にいくときには指導員として同行する、という仕事でした。一夏、長野県の八坂村で子どもたちと過ごし、ボランティアとしてお手伝いにきて下さっていたお母さんたちともすっかり仲良くなり、やっと、ずっと続けられる仕事が見つかった、と充実した毎日を過ごしていました。

 その秋に26才で結婚。一緒にスペインに行くはずになっていた、横浜の絵描きの彼は中学校の教員になり、私は私で職を得て、夢が現実に負けたという、お定まりのラブ・ストーリーということにしておきましょう。夫も私もお互いを結婚相手と意識する事がなかったので、お互い身の上話を相談しあっていたのですから、人生、何があるか分からないものです。とりあえず、「石橋を叩く前に渡っている」と親を嘆かせた私と、「石橋を叩いて確かめても、渡ることをちゅうちょする」夫との二人三脚がはじまりました。

 ちなみに、結婚するときの約束は二カ条、1.お互いに生活のために人生を犠牲にしないこと、2.家事、育児は一緒にやって、一緒に休むこと。以来、1番目の約束は割と守られているようですが、2項目は疑問です。

 次の夏は長男を出産して子どもたちの付き添いはできませんでした。子どもがしっかりしたら、子連れで一緒に長野に、と思っていたのですが、突如、八坂村に活動拠点としてセンターを建てる、という計画が持ち上がりました。総工費1億。5千万円は補助金がついたのですが、5千万は寄付を仰いで調達しなければなりません。しかし、なかなか寄付集めが厳しい上に、センターができたら維持・管理も必要になります。

 前々から、八坂村で1週間や10日過ごしただけではお客様に過ぎず、本当に子どもたちが過疎の村の生活を体験したことにはならないのでは、という意見があり、1年間の山村留学の案が検討されていました。それがセンター構想が持ち上がったことにより、留学させる家庭の負担する金額が大きくはねあがったのです。後輩の職員と二人で、「これではお金持ちの家庭の子しかいけなくなる。趣旨が違うのでは」と反対しました。「きれいごとを言っても君たちの給料は、どこから出ていると思うんだ」という理事長の一言で、後輩と二人で、「辞めさせてもらいます」と啖呵を切ってしまいました。

 後に、理事長はこのセンターの建設と維持のため、自宅まで手放したことを知りました。今では日本中、あちこちの過疎の村で行われている山村留学の、本当に先鞭をつけた事業でした。

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