漢方との出会い
「育てる会」を辞める半年前、喘息様気管支炎を繰り返すなど、体の弱かった長男をなんとか丈夫にしたいと、それまで住んでいた荻窪から、春日部の武里団地に転居しました。先に武里団地に住んでいた夫の姉の「保育所が充実していて、子育ての環境としてはいい」、といの薦めで、姉の知人から5街区の一戸を譲り受けたのです。確かに7時から7時という保育時間は、当時としては画期的なものでした。さらに、荻窪の保育園よりも、子育て経験のあるベテランの保母さんたちが多かったのも、うれしいことでした。父母の会の活動も活発で、すぐに共働きの子育て仲間もでき、転居は正解、と思ったものです。
しかし、長男はなかなか丈夫にならず、夫が知り合った、漢方を教える私塾を開いている先生に相談に行きました。小児鍼という皮膚刺激と漢方薬とで、長男は半年も経たずにすっかり元気になり、このときから漢方の不思議な効き目のとりこになりました。
ちょうど育てる会を辞めたころで、請負で細々と編集の仕事をしながら、生活費の足りない分は新聞配達したり、1軒いくらの訪問調査をしたり、という時期でした。1才年上の、まだ若いその先生が、事務と留守番をする人を探していることを知り、その漢方の塾の仕事を手伝いながら、フリーで編集の仕事をすることにしました。
「西洋医学は病気を治すが、漢方は病人を治す」といわれます。かぜなどの急性病(漢方でいう外邪の侵入)のときは、発汗や排便などで邪を除く治療が行われますが、多くの場合は、体の中のアンバランスな状態を治すことによって、病を治す、という漢方の治療法は、納得のいくものでした。
また、薬の中には上品、中品、下品とあり、下品は薬としてのみ用いられるもの、上品は食べ物として摂取されるもの、という考え方があります。つまり、食べ物が健康を保つための基本、その人の体質に合った食事の大切さ、なども知りました。
当時、豆腐などの防腐剤として使われていたAF2の催奇形性が問題になっていました。そのことで取材した、遺伝学の先生の言葉はショックでした。「人間がこんなにたくさんの化学物質を食べ物と一緒に取り込むようになったのは、戦後の本当に短時間のこと。それらが複合的に重なり合ったときの危険性は、ほとんど研究されていないし、遺伝子にほんの少し傷つけたとしても、それが次の世代、その次の世代にどういう影響を及ぼすのか、未知。日本人は、今、壮大な人体実験を行っているのと同じではないか」
以来、添加物を使っていない安全な食品の共同購入、農薬を使わない米や野菜の共同購入をずっと続けています。これは自分や子どもたちに安全な食べ物を、という思いもむろんありますが、本当に食の安全性を考えている生産者を応援したい、ということ、さらに、安全な食品を求める人の輪を広げたい、という思いもあります。
漢方と出会い、また食生活を変えることで、体の弱かった私もすっかり健康になりました。発育不全で子どもはむずかしい、といわれた私も、4人もの子どもたちに恵まれました。
それ以来、我が家では、夫も子どもたちも、眼科と歯科以外はほとんどお医者さんとは縁のない生活をしています。
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