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春日部で、子育てで生まれた人とのつながり

 長女が1才のとき、夫の両親と同居するために備後に中古の一戸建てを求めて引っ越し。その後、二女誕生。手狭になって大畑に転居。次男誕生。子どもたちを預けていた保育所で、そして食品の共同購入を続ける中で、次第に友人が増えてきました。


<長女と次女は年子。次女のおむつを替えるため抱っこしようとすると、長女が割り込んできて……。このころ夫の帰宅は毎日遅く、私の夢は、一人でゆっくりお風呂に入りたい! というもの。子どもたちがふりむいてくれなくなった今は、むしろこのころが懐かしく思えます>

 私の場合はフリーのライターをしていたので、仕事が夜にかかることもしばしばでした。子どもたちが一番手のかかるときは、夫は小さい出版社に勤めていて、なかなか保育所の迎えをするのはむずかしい状況でした。姑は、二女が生まれたころ坐骨神経痛で3カ月寝込み、その後はコルセットをはめていた状態で、小さい子3人の迎えを頼むのは、本当に緊急でどうしようもないときだけでした。

 私が迎えにいけないときは、保育所の仲間が自分の子どもと一緒に連れて帰ってくれて、夕飯を食べさせてくれました。遅いときなど、お風呂にも入れてくれ、保育所で汚した衣類は洗濯して乾燥までしてくれたこともあり、感謝するばかりです。

 つい最近まで、電車の中で「保育所のお迎えが間に合わない」と焦る夢を見ることがありました。車の渋滞に巻き込まれて、一台電車に乗り遅れてしまったときなど、どうしても間に合いそうもない! 保育所に電話して「○○ちゃん、お迎えまだですか? うちの子も一緒に連れて帰るように、お願いします」年に何回かは、こんな事態もありました。そんな関係ができていたことで、長男から延々と続いた16年間の保育所生活を、何とか切り抜けることができました。

 二男が1才のとき、二男を保育所を迎えに行ったのが7時まであと10分しかない、というぎりぎりの時間。そこからちょっと離れた二女の待つ第1保育所まで自転車をとばしていく途中、転んでしまいました。二男をかばって、右腕で受け止めた瞬間、右肘を完全脱臼、激痛が走りました。ちょうど保育所から出てきた、看護婦さんをしている友人が応急手当をしてから、子どもたちをひきとって自分の家へ連れていってくれました。もう一人の仲間が私を整形外科へ運んでくれ、自宅への連絡等々、それは見事な連携プレーで処理してくれました。今でも、ちょっと、外向きになってしまった右腕を見るたびに、あのときのありがたさが思い出されます。

 フリーの編集者としての仕事は、育児雑誌、教育雑誌、料理雑誌と順調に広がり、4人の子どもを育てながら出張をこなしたり、締め切りに追われる毎日。家族と保育所の仲間の支えがあって、なんとか両立してやってくることができました。

 また「わらじの会」との出会いは、私の人生観を大きく変えるきっかけになりました。
 長女が生まれたときのことです。保育所の友人の一人が「わらじの会」の活動に参加していることを知りました。「ボランティアなんてうさんくさい」と思っていた私ですが、何かの折に参加して、何の気負いもなく活動している人たちを知りました。

 また、本当に24時間、だれかの助けが必要な、いわゆる重度の障害を持った人達の姿にショックも受けました。それまで、「女でも自立するように」と母親からいわれて育ち、祖母には「人様には迷惑をかけないように」と育てられたことが、私の人生観となっていました。わらじの人たちと知り合うようになって、「自分でできないことは、人に頼ってもいいんだ」、「迷惑をかけあって生きる生き方もあるんだ」ということを知りました。

 以来20年以上、我が家の夏の家族旅行はわらじの合宿、というほど、わらじの会からはさまざまな恩恵を受けながら、暮らしています。

 バザー、クリスマス会などのイベントの手伝いのほか、障害者の自立のためのリサイクルショップ「吐夢亭」を越谷市役所の近くにオープンするときが、もっとも手も口も提供していたころだったでしょうか。谷中耳鼻科の駐車場の一角にあった、自立に向かってはばたく店「パタパタ」がやはりリサイクルショップ「ぶあく」としてリニューアルされ、(現在「パタパタ」は場所をかえてディケア施設となっています)、その後、吐夢亭はぶあくに吸収合併されましたが、私の着ている洋服は、ほとんどがバザーかぶあくのリサイクルファッション、自称、「ぶあくの歩くマネキン」なのです。


<生活ホームを立ち上げるきっかけになった、故新坂幸子さんと。亡くなる前年(1999年秋、わらじの会バザーのときのツーショット>

 また10年ほど前に、重度の障害を持った人たちの生活ホームができたのをきっかけに、介助システムができ、その一員として活動していますが、現在は、介助など、役に立つのは子どもたち。「片山家は子どもたちがきてくれれば、親はいいから」といわれるほどです。

 その後、姑がアルツハイマーになり、特有の被害妄想、作話、徘徊にもつきあいました。介護の大変さは、肉体的なものはもちろん、精神的な辛さが大きいことを実感した日々です。

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