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手づくり選挙で当選

 「女性と政治スクール」を手伝っていた、1998年の暮れ、もう仕事納めになろうとするころ、当時の社民党春日部総支部代表の阿部さんから、突然電話があり「来年の市議会議員選挙に出てくれないか」という申し出がありました。「まさか」。絶対に嫌だと思いました。

 理由は4つありました。

 一番大きな理由は、私は書き言葉人間、人前で話すのがとても苦手なのです。高校時代、演劇部では、膠にまみれて大道具を作ったり、台本を作ったり、という裏方仕事に徹していたほどです。

 二つ目は、まだ末っ子が中学生という多感な時期、街中に母親のポスターが貼られたり、母親が人前の目立つところで話したりするのをいやがるだろう、と思いました。私自身、自分の顔が街中にベタベタ貼り出されるのは真っ平ごめん、恥ずかしくてとても街の中を歩けなくなる、という気分でした。こんなに内気で控えめな性格では勤まらない稼業に決まっています。

 三つ目は、当選するには1500票以上は必要とのことでしたが、私には知り合いは100人くらいしかいないし、とても無理、と思ったのです。

 四つ目は、私がやりたかったのは、ふつうの人がごく自然に政治に関わることができるような流れを作りたいということでした。だから、政治に関わる活動をすると、すぐに候補者として目を付けられる、という展開はさけたかったのです。

 1月4日、週刊金曜日の読者会の新年会を我が家で開くときに、阿部さんにきていただき、詳しい話を聞きました。もちろん賛否両論。

 次に今まで親しくつきあっていた仲間12人ほどに集まってもらい、相談したのが1月10日でした。そのころまで、私の気持ちは、揺れ動きながら、「出てもいいかな」という方向に傾きつつありました。それは常々辻元清美さんに、「気がついたら、気がついた人がやらなあかん」と言われていたからです。このままでは、自分が投票したいと思う候補者がいない、ということに気がついたこともありました。だったら、私と同じ思いの人がいるはずだから、恥を覚悟で出てみるのもいいかもしれない、そんな気持ちもありました。

 前回の選挙では、保育所の仲間、梅崎政治さんが立候補し、当選を果たしましたが、任期半ばにして白血病で亡くなられました。「だれか梅崎さんのあとをついでくれる人はいないかしら」、そういう思いはみんなにありました。しかし梅崎さんは原水禁運動や、労働組合運動を長く続けてきた方なので、私とはキャリアが違いすぎます。それぞれの人がそれぞれの思いを話してくれましたが、結論としては、「不安だけれど、片山さんがどうしても出るというなら、応援しようか」という方向に固まりました。ただし、社民党の公認では困る、あくまでも市民派、女性の代表ということで、という条件付でした。

 社民党春日部総支部の、選挙管理委員のメンバーと会って条件を話し合ったのが1月下旬のことです。元市議の、後見人的兄貴分が立ち会いしてくれましたが、びっくりしたのは、私の経歴を聞かれたことです。「PTAでの役員歴は?」「その会は会長をしていたの?」だんだん自信がなくなってきました。どこでも、当番のような形で役員は受けたことがあります。しかしなにしろ共働きで4人の子どもを育ててきたのですから、いろんな役員を受ける時間的なゆとりなどあろうはずもありません。知名度がなく、組織票も期待できない、そんな私が立候補するのはお門違いなのだろう、と弱気になってきました。

 「ただのおばさんが出て、何票とれるか楽しみじゃない、やってみよう!」、「いや選挙はそんな甘いもんじゃない」賛否両論ある中で、最初の会議が開かれたのが2月7日、「片山いく子と市政に参加する会」を立ち上げることができました。仕事を片づけて、上野の事務所に通わなくていい状態になったのは、2月の末のことでした。

 この間の経緯を書くと、1冊の本になるほど、たくさんのごたごたがありました。感激するできごともそれ以上に。方針は二つ、春日部の市議会構成を見ると、それまで32人の議員のうち、女性はたった4人、だから「女性議員を増やそう」をキャッチフレーズにすること、そのために、あくまでも選挙を進めるのは女性と若者にする。社民党の推薦は受けるものの、組織的な応援はあくまでも後方支援とする。二つ目は誰でも選挙に出られるよう、できるだけ公費以外はカンパでまかなう、素人の手作り選挙にすること。

 リーフレットができあがってきたときのことです。手違いで、4/32という文字が抜けていました。刷り直している間に、使いたい集会がある、そこで、みんなで手作業で書き込んでくれました。なんと3日で5千部もの訂正ができたのです。このパワーなら、いけるかもしれない、初めて自信が湧いてきました。

 最初はお金をかけないために、自宅でずっと選挙戦を、と思っていました。しかし、それでは広がらないし、何より、子どもたちの生活もめちゃめちゃになってしまいます。投票日予定の1カ月半前に、知人の紹介で駅前のビルの半地下を借りることができました。

 しかし、弱点もいっぱいありました。何しろみんな主婦ですから、夕方以降、動ける人がいません。責任を持って事務局長となり、常時詰めてくれる人もいません。直前まで、引継ぎ引継で、仕事を受け渡していく、という体制で進められました。

 素人集団と見て、選挙経験のある方々から、たくさんのアドバイスもありました。しかし10人いれば10通り、服装から髪型から、選挙戦術までさまざま、あちらを立てればこちらが立たずの状態です。その中で選択の根拠となったのは、私が納得できることは、多分多くの女性が共感してくれるはずということ、そして、評論家的な意見よりも一緒に動いてくれる人の意見を大事にしよう、ということでした。なんといっても、春日部では前例のない選挙戦をするのですから。

 何をしていいか分からないため知り合いの家を1軒1軒回り、「女性議員を増やそうという運動をしているので、お力添え下さい」とお願いして回る毎日から始まりました。よく知った人以外といえば、最初に思いついたのは、子どもたちの同級生の名簿です。名前を見て、子どもか親ごさんのどちらかの顔を思い出せる人を訪問することからスタートしました。4人の子どもたちがみんな、友だちづきあいがよかったことに、感謝感謝でした。もちろん、保育所や学童保育時代の仲間、当時けんかしてやめた状態になっていた生協の元の仲間にも、力添えをお願いして回り始めました。このあいさつ回りは、最初はチャイムを押すのさえドキドキものでしたが、皆さんの声を聞ける貴重なチャンス、今でも議会報告を配りながら続けていますが、大好きな活動の一つになりました。

 次々に、応援する仲間からも紹介を受けて名簿は増えていき、最終的には1000人以上になりました。途中、社民党から「混乱するので県議会選挙の投票が終わるまで、労組の関係の挨拶回りをするのは控えてほしい」と言われたため、結局紹介していただたいた方全員に挨拶することができなかったのが、心残りです。

 知名度のない私を知ってもらうために、リーフレット以外に討議資料のチラシをつくりました。現在議会報告になっている「風のたより」を2ヶ月間で2号から6号まで発行し、学校の門の前で、スーパー前で私の考えを話ながら配布しました。マイクを持つのが大の苦手(今でも、ハンドマイクは苦手です)、選挙中もすぐにマイクを応援してくれる人に渡してしまう有様でした。駅頭に立つ覚悟ができたのは、4月に入ってからのことです。

 ミニ集会は3回、1回目は「介護保険について」、2回目は衆議院議員の保坂展人さんに来ていただいて、「僕たち、私たちを引き算しないで」と題した教育問題を取り上げ、3回目は大好きな市民の絆の代表、岩崎駿介さんに来ていただいて「環境問題」をテーマにしました。


<保坂展人さんの講演会で。講演録を読みたい方は議事録・発言集にあります>

 統一地方選挙の直前、社民党の女性市民委員会の主催で、全国の女性候補者の激励会が行われました。そのとき、司会の辻元さんが「ここに集まっている候補者の皆さんは、顔でニコニコ笑っているけど、本当は朝早くから駅立ちして日中は挨拶回りして、夜中に帰ってから一人でビラ作って‥‥」と言うと、みんなどっと笑いました。そのとき、全国で私のような戦い方をしている人がこんなにいるんだ、と妙に心強い思いがしたことを覚えています。ビラつくりだけでなく、挨拶回りをするところの地図の確認も、みんなが手分けして進めてくれましたが、急に予定が変更になったり追加になったりすると夜中の作業になり、気がつくともう夜明け、ということも少なくありません。

 その上、家事を受け持ってくれることになっていた二女が、高校の卒業式が終わるまでは連日帰りが遅く、挨拶回りを切り上げて夕食の支度をしに帰るため、告示日までは時間がいくらでもほしい毎日でした。これは現在、議員活動を続けていても同じで、男性のように、帰宅時間を気にしないで仕事ができたらどんなにいいだろう、と思うことがあります。しかし、私は普通の主婦でもできる選挙を目指したのであり、当選した今は、ふつうの主婦ができる議員活動をしなければいけないのだと、自分に言い聞かせています。

 「自分がされていやなことはしない」がモットーだった、私の選挙戦を象徴しているのが、事務局長がファイルに入れて選挙カーに置いてくれた次の二つのメッセージです。

 「アナウンスしてくださる方へ。よろしくお願いします。私たちは大きな声で名前を連呼、というスタイルより、静かに語りかけるという形でやりたいと考えています。『ゆっくり、静かに』をお願いします。」

 「いく子さんへ。これから一週間、まさに『やるっきゃない』状況です。体に気をつけてがんばりましょう。常に笑顔を心がけてください。疲れてくると注意力が散漫になってきます。心してください。大勢の方があなたのために力を合わせています。あなたが不機嫌になっては、皆のやる気もそがれてしまいます。きついとは思いますが、事務所に戻っても笑顔を心がけてください。後ろ向きの発言は慎んでください。ああすれば良かった、こうもできた、ではなく、明日に向かってどうすすめるかと考えていきましょう。」

 実際には、いつも笑顔で過ごすことができました。公示日前の不安はどこへやら、後ろ向きになる暇もなく、毎日指示に従って動き回る一週間。娘の友人や仲間のお子さんたちが中心の選挙カーは楽しい雰囲気で、選挙カーに乗る希望者が続出。ウグイス以外の人たちがマイクを握って、それぞれの味を出して応援してくれました。

 事務所に戻ると、みんなが帰ったあとに事務局長ともう一人の友人、そして夫と男性のサポート隊が残って出迎えてくれました。主婦パワーならではのおいしい食事が楽しみでした。遅い夕食をとりながら、日中、事務所で選挙を支えくれているみんなの姿が思い浮かび、感謝するばかりでした。

 投票日の25日、夫が開票立ち会いに出かけたあと、だれもいない事務所で一人留守番をするのかと心細くなったとき、ドライバーをしてくれた若者がやってきました。続いてウグイスをしてくれたお嬢さんが。そして、保育所時代からの友人を皮切りに、一人、二人。意外にも30分ごとの開票は、着実に票をのばしていきました。もうすぐ日付が変わる頃、当選決定、しかも30人中19位という意外な結果でした。お礼の電話をかけているうちに、一人二人と集まってくれ、涙、涙で祝い合いました。素人でもやれるんだ、それがなによりうれしかった瞬間です。


<50坪もあった、広い事務所での出陣式。現在もシンボルマークになっている、パソコンプリントの手作りののぼり、手作りのジャンバー>

 私の配慮の足りない言動で、あわや、という危機が何度もあった「参加する会」ですが、それは選挙後も変わりがないと思います。しかし、自分たちが議会に送ったんだ、という気持ちが、私を見捨てずに見守り、育てようとしてくれていることに、本当に感謝しています。たくさんの応援団が後ろに控えていることだけが、会派に属さず、たった一人で議会活動をしている私の元気の源です。

 選挙後2年、折り返し点ということで大幅に部数を増やし、ページも倍にした「風のたより16号」1万3千部は、みんなで挟み込みをしてくれ、配布してくれました。

 今年の母の日、高校卒業後、選挙の時以来、私が忙しいときに家事を手伝ってくれる娘が、こんなメッセージを渡してくれました。

「何年か前、お母さんが市議選に出ると言い出したとき、本当にイヤでした。『ムリだよー』とか『はずかしい』とか。でもはじまっていろんな人が手伝ってくれて、街の人が話を聞いてくれて、支持されて、夜中のニュースで当選を知った時に涙が止まりませんでした。何かを変えようと立ち上がっていく姿は、本当にすごかったよ。私の誇りだよ、お母さんは」

 立ち上がって、本当に良かった、と今、思います。

 もっともっと良かったを大きく深いものにするために、活動し続けていこうと思います。

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