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ぼくたち、わたしたちを、引き算しないで
「保坂展人講演録」(1999年3月13日)
明治や大正時代の子どもたちにとって学校の先生の存在は、まだ見ていない世界について唯一知っている知識人であったわけです。そこから子どもたちは様々な事柄について本当に学んだわけです。ところが今の社会では、テレビを通して、子ども同士のうわさを通して、あるいは、雑誌を通して、多くの情報が降り注いできます。にもかかわらず学校の授業というのは変わらない。ここを考えてみる必要があります。
ぼくが中学二年生の歴史の授業のときに、教師が「日本が太平洋戦争に入った。」というところまでで歴史の授業を終えようとした。ぼくは、「先生に歴史を教える資格はない。」とかみつき、学校を批判する「問題児である。」とされた。
本来歴史というのは、今私たちが生きている時代がどういう時代なのか、そして明日どんな方向に歩んでいったらいいのか、ということを賢く選び抜くために先人の歩みをたずねるはずのものです。
ところが、今に近い過去について、たとえば太平洋戦争になぜ負けたのか、なぜ六十年安保闘争があったのか、なぜアメリカはベトナムに侵略していったのか、こうしたことについて学校の授業というのは全く触れない。今起きていることについてダイレクトに回路が結ばれていないという気がする。学習指導要領通りに教師は授業をしなければならないのが現実なのです。
今学級崩壊いう問題が起きています。学級崩壊とは何かを定義してみると、教室に子どもはいるのに、先生はたとえば聞こえないような声で授業をしている、生徒はガムをかんだり寝ていたり、出たり入ったりして、それを教師はコントロールできない。こうした状態が小学校の5年生、4年生といったところまで降りてくるとどういったことになるでしょうか。
人間は必ずしもプラスのことだけを学ぶ存在ではありません。十才の少年少女が「世の中ってくだらないもんだな。」「教師ってばかだなあ。」「もうつまらないや。」と感じる。そうしたくさくさした気持ち、「どうでもいいよ」と暴れたくなる気持ちを蓄積していって、読み書きソロバンのレベルでの学力がほとんど形成されなくなってしまう、そういった危機に陥ってしまうのです。
この学級崩壊の状態が続けば、親たちは自分たちで自主学級を作ってもう一回やり直すぐらいのことを迫られる時期が間もなくやってくるでしょう。それくらい教育の危機は進行していると思います。
それでは日本の学校をどうしたらいいのか。
アメリカでは、見事に出身階級、出身階層にしたがって、金持ちの子は金持ちの学校へ、貧乏人は貧乏人の学校へ行き、そして授業が成立しているのは金持ちの学校だけとなっています。
日本は識字率が世界で一番高いわけですが、これは、どの子も地域の学校へ通って読み書きソロバンは覚えられるということを今の公立学校が保証してきたからです。
受験戦争の問題もあるけれども、教育の基礎の基礎という部分においては日本は成功してきた。ところが、そこのところが完全に経済至上義に投げ込まれてしまうと日本の学校は危ない、ぼくはそう考えて文部省に対案を提示するための作業をしています。
ぼくは、子どもとは、言いたいことがあるのだ、伝えてわかってほしいことのある存在なのだと自分の体験上思います。
20年前、校内暴力の事件が起きたときにツッパリの少年たちは、「小学校5年生から6年生にかけて授業が分からなくなった。ぼくを置いてのけ者にして授業が進んでいってしまった。」という疎外感から仲間同士で非行化していった。
そのことは、このままの教育ではいけないという一種のアラームだったにもかかわらず、日本の社会は力ずくでふたをしてきました。その当時校内暴力が起きたら躊躇なく警察に引き渡したために、現行犯の中学生逮捕が増え、表面だったツッパリの少年たちはいなくなった。学校長の判断で出席停止処分が出せるようになり、「悪い生徒は学校に来るな」と排除した。
コンクリート詰め殺人事件を引き起こしてしまった少年たちが通っていた学校は、教育委員会指定の規律が整って風紀が乱れていない、ごみの落ちていない道徳モデル教育の推進校でした。
「おまえたちには用がない。」と学校から放り出された少年たちは街をふらつく中で忌まわしい事件を起こしてしまう。問題のある少年たちを学校から締め出すことによって学校は一見クリーンになったかもしれないが、学校の外でああしたひどい事件が起きてしまったことをわれわれは忘れてはならない。
1986年2月、東京中野区で鹿川ひろふみ君が中学二年生でいじめの事件で亡くなった。それから8年後、愛知県西尾市で大河内きよてる君が長い遺書を書いてなくなった。この間ぼくは、中学生高校生からのたくさんの声を受け続けていたにもかかわらず、子どものSOSに対して日本の社会はその叫びを受け止めきれなかったんだいう申し訳ない思いでいっぱいになった。
そのとき、イギリスでいじめに取り組む親たちの運動が起こっていることを知りました。ロンドンに「チャイルドライン」という24時間子どもが無料で電話をすることができて、いつでも自分の悩みを丁寧に聞いてくれる組織がある。この規模は、一日に一万人の子どもが電話をかけてきて、年間の予算は10億円余りです。資産は、個人単位、あるいは教会のチャリティー、企業の協賛などの寄付でまかなわれていてる。こうした組織が10年前に生まれていた。イギリスの公衆電話のすべてに「チャイルドライン0880−1111」とかかれた覚えやすい電話番号のついたマークがある。
ぼくも、大河内きよてる君が亡くなった当時、留守番電話で子どもたちの声を受けていましたが、その数は、1ヶ月で電話がつながった人たちだけで一万人、録音テープに自分の体験を入れた人が千人、時間数にして52時間分ありました。
チャイルドラインのように子どもにとって身近な電話が日本にもあったらどんなにいいだろうと思い、試算してみました。たとえば1ヶ月に一万人の電話を10本の回線で24時間体制で受けるとしたら,膨大な人の手が必要です。おそらく3、400人が交代で電話に出ないと無理です。
人件費はどうするのか。イギリスのチャイルドラインに出ている人は全員がボランティアでした。2週間のトレーニングを受けて子どもの話をきちんと聞くことに徹する。「あまり多くのことはできないかもしれないけれど、いつかけても、誰が出ても話を聞く」というのがホットラインの主旨でした。
埼玉県は2年前にいじめ関連の予算で全国最高の予算を組みました。スクールカウンセラーの配置などの試みに8億円近い予算をつけました。
しかし、行政がこうした取り組みをする際にある落とし穴がある点について紹介してみます。福岡県では体罰、いじめを苦にした自殺、自殺予告事件などでパニックに陥っていたため、3、4年前に教育委員会が2億3千万円のいじめ解決予算を組んだ。
しかし、その中身を見て苦笑してしまいました。地域に、町内会長、婦人会長、子ども会の役員、元警察官、元教師を集めて「いじめ根絶推進本部」をつくり、「いじめ根絶パトロール隊」を結成して地域を巡回するというものでした。
また、市町村会議で「いじめ根絶都市宣言」を採択し、「いじめ根絶強調月間」を設け、キャンペーンをする、アドバルーンを上げるというものでした。これで本当に効果があがるは思えません。
神奈川県の教育委員会でも大河内君の事件の後でシンポジウムを開いて1500人が集まった。しかし、大体話はめちゃくちゃになってしまって何ら具体的な方策を生み出すことはできなかった。
「行政が悪い」「学校はなってないじゃないか」といっているだけでいいのかという思いがあります。現実にいじめの問題があり、追いつめられて死んでいこうとする子どもたちがいるのです。その子どもたちをどうにかしてレスキュ−できないのだろうか。まずは安心して飛び降りることのできるセイフティーネット、救命の舞台装置を作るのがわれわれ大人の役目ではないでしょうか。
ぼくは、東京の世田谷で地域丸ごとのいじめに対する取り組みを組織してきました。いじめの問題を前に学校や教育委員会だけを責め上げても何もでてこない。むしろ市民運動と行政・教育委員会は手を組んで地域から親たちが参加できる運動を起こそうと世田谷区会議委員に提案をしてそれが見事に実りました。
世田谷子どもいのちのネットワークを組織して、「いじめよとまれ」というシンポジウムを開いた。「いじめよとまれ」というポスターが800個所に張られ、子どもを通して配られ、それを見た親が公立学校から500人参加した。それは同時に地域に安心感を生みました。
昨年、イギリスのチャイルドラインを世田谷でも24時間2週間だけやってみようという試みがなされこれもうまくいきました。
地域で、完全に民間の親たちで、しかも子どもも参加する力で教育を変革していきたいと力を注いでいましたが、国会議員になってすぐには、いじめに悩む子どもの声を受け止めるための「24時間ホットライン」の体制整備を急ぐという案を連立政権の最終合意項目にいれることができました。
これは、市民が参加して運営し、心ある人が子どもの悩みに寄り添いながら解決していく形をとるべきものにしてほしいと、要望しました。文部省も「24時間ホットライン」に4千万円の予算を決めたのですが、地域の実情に合わせて金を出すと言っているうちにその内容がいつのまにかすりかわってしまう点に気をつけなければなりません。
たとえば、退職した校長が対応している場合の多い公的相談窓口を土日に開けるための予算にまわしてしまったりする。今の校長という業務は会議が多く子どもとあまり話をしない、概して教育委員会の教育行政官僚として学校にいる側面が強い。そのため、相談機関に子どもが電話をすると説教されたり怒られてしまう。子どもにとって遠い存在、かけてもあまり益のない存在になってしまっている。
今日のこの会をきっかけにぜひネットワークを作って欲しいと思います。ネットワークをきちんと組んでいくことで地域の外からの知恵袋も借りて、様々な問題を共有してともに解決していく絆を作ってほしい。
片山さんも「市民の絆」に参加されて、「市民の政治学校」でいろいろな企画をやっていただいた積極的な方で、また、女性と政治を結んでいこうという「政治スクール」のなかで活動されてきました。ぜひ皆さんの仲間として今日をきっかけに教育を変えていこう、子どもを守っていこう、そして学校を荒廃から救っていこうという点でがんばって欲しいと思います。
Q:地域の教育力、家庭の教育力についてのお考えを聞かせてください。
A:一つの学校の中でなんでも話せる仲間を作れるのが理想ではあるが、なかなか難しいのが現状でしょう。いくつかの学区が重なるような、自転車で10分位で集まれるような範囲の地域が大事だと思います。世田谷区での場合は、約10年間位月に一回真面目な会プラス飲み会をやっていたが、そのスペースのあったことが大きかったのではないか。それにより顔見知りができ、この問題のときにはこの人のところに行くといいといった「資産」を発見できた。学校をいうのは地域の唯一の結合体であって、子どもの問題を思い切って地域に開いて考えてみようというコミュニティー作りが大切です。それが学校を支えたり子どもを支えていく力になっていく。教育力というと教えて育てる力だと思いますが、そうではなくて、今子どもを後ろからがんばれよと励ましてやることが大事です。家庭で夫婦2人だけで向き合っていてもあまりいい知恵は出てこない。今必要なのは、どんどん外に出ていって新しいコミュニティーの絆といえるような地域の関係を作るべきではないでしょうか。
Q:岩波ブックレットの「責任・選択・自由」を読んだのですが、子どもたちは学校を選ぶことも先生を選ぶこともできない。制度的に選択できないことをどう思いますか。
A:最終的に学区制廃止には反対です。日本の地域を後10年20年のスパンで考えてみたときに、学区制を廃止したら地域の結び合いはなくなる。もう一つは、経済原則で動く。アメリカの例を見れば明らかなように、より所得の高い層が偏差値の高い学校に行く。それ以外の学校はどうなるのかというとスクラップ化する。ちょっとお金のある人は逃げていく。そこの家賃が安くなり、街が物騒になる。アメリカのスラムはこうして形成されてきた。公立学校は残した方がいい。なぜなら、どんな社会階層の子どもも一緒に過ごすことができ、それが地域を束ねている力になっている。
移動の自由、選択の自由を大幅に認めながら、学校半日制を提案したい。授業はお昼までで、午後は子どもたちが冒険でも昼寝でも自由に使う。教師には午後は強制帰宅命令を出して、子どもがワクワクドキドキ楽しめるような活動をサポートするためのボランティアをする。学校の授業は確かに面白くない。それは習った知識を使えないから。授業をインプットされた今の子どもたちは、テストでしかそれをアウトプットできない。教師がわずかな学生時代の体験のねただけを基に20年も30年も目を輝かせて子どもに情熱的に語りかけることなどできるはずがない。教師は会議会議でねたを仕入れる暇もないのだから授業が面白くないのは当然。だから教師も半日で学校を去って、自分で考える時間を作らなければ子どもに教える内容は生まれてこない。
Q:学校の図書館を充実させて地域に開放するという案はどうでしょうか。時間のあるお年寄りや学校に行きたくない子どもたちが集まってこれるのではないか。
A:学校の中に多様な色合いが入ってくるほうがいい。その意味でいいアイディアだとおもいます。また、食事をせめてカフェテラス方式にするなど学校を人間らしい空間にしていけたらいい。
最後に「減点法」について一言付け加えます。ぼくが一番つらいと感じるのは、自分で自分を嫌いになる子どもたちの声を聞くときです。生まれてこのかた「だめだ」「だめだ」と言われ続けてきているために自己評価が低い。小学生の4割が「生まれてこないほうがよかった」といっている。楽しいことなど何もないと。
日本はそんな国になってしまったのです。それが減点法です。
いじめを受けている子どもと、それを跳ね返していく子どもとのぎりぎりの境界線は、自己評価がどれだけきちんとあるかどうかです。自分を守ってやれる自分自身への信頼を持ち、間違いやミスはあってもそれも含めて自分らしさだと思える子どもたちを作っていかなければならない。
この点だけは家庭で確保してほしい。家庭が一番子どもを切り刻んでいる場にもなりかねないのですから。
「子どものために…」にしては言葉に険がありすぎる。それは私たち親の中にも成績によってバツをつけられた悔しさや割り切れない思いがあって、それが再生産されてしまうからです。ぜひ子供たちを支え、いいところを誉めてやってほしいと思います。
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