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大学で女性学を教えるより、
国会で真の男女共生社会の実現のために
たたかいたい
「船橋くに子講演録」(2001年7月11日)<
女性学は世の中を変革する展望を見いだす学問
今、全国で56の勝手連ができて、選挙運動を展開しています。組織力に頼り、お金をたくさん使う従来型の選挙に、党から出る決まった金額とカンパ、そして勝手連の応援という新しい選挙運動のスタイルで、どこまで票がのばせるのか。辻元清美さんがいうところの「草の根有名人」でしかない私が、メディアにのっかった人にどれだけ迫れるのか、ということが問われる選挙になっています。
で、なぜ私が今回、公立大学の教員の職を投げ打ってまで立候補しようと決意したのか、をお話します。
私はこの20年間、アジアの女性や全国の女性とネットワークを広げてきて、私の場合は、女性学というのは行動する学なんだ、世の中を変えていく学なんだ、と思ってきて、女性学というのは世の中を変革するための展望を見出せなければ学問ではない、と常々思っていました。
私は60年代の後半に大学にいた世代で、安田講堂を占拠したりした、歴史的な状況の中に身を置いてきたので、研究者になるというのは自分の知的充足のためではなく、世の中を変えるためだということをずっと考えてきたわけです。
学生結婚して、子どもを3人生んで、子どもを育てながら仕事をしてきたわけですけれども、私の方は「くに子さん、あなたは理解のある夫に恵まれて、子どもまでいて、それで仕事もしたいなんて欲張りね」といわれるのに、夫の方は「理解のある旦那様ね、奥さんがあちこち飛び回っているのに、我慢して、すごくいい旦那様ね」といわれるわけです。
非常勤の講師から仕事をはじめたわけですけれども、そのころから子育てのネットワークを近所につくって、子どもを今日はどこに預けようか、とやりくりしながら仕事をしているわけです。夫の方は、自分の時間のあいているときだけ子どもの面倒をみて、それでもうすごく自分はいい夫だと思い込んでいる。
そんな現実に直面していた75年に、メキシコの世界女性会議があったんです。それに出会って、そのあとアジアの女たちの会などに入って、やっぱり私も妻、母、というだけでなく、船橋くに子として社会に関わりたい、という思いがあったものですから、アジアの女たちの会、日本女性学会に入ったものですから、自宅で小さな私塾のようなものを開いて教えたり、大学で非常勤で教えたり、翻訳をしたり、なんとか夫に養ってもらわないで、自分の収入で生活することは細々続けていました。
そして80年の第2回世界女性会議のときに、自分で行ってみたいと思ったとき、夫は行くな、というほど亭主関白ではないけれど、体が拒否反応を起こして、出発直前に下痢してしまったんです。そのとき、3人いる姉のうちの1人が「子どもの面倒は10日間くらいみてあげるから、行ってらっしゃい」と言ってくれましたし、近所の友だちも「みてあげるから行ってらっしゃい」と言ってくれました。私がものすごくちゅうちょしたときに、ポーンと突き出してくれたのが、姉や友だちだったんですね。こういう人たちがあのときいてくれなかったら、今の私はとてもいなかった、と思うと、本当に女性のネットワークはうれしいと思ってます。
佐賀の女性センターをすべての女性のための館に
それから私の人生は大きく変わりまして、それを機会にアジアの女性のネットワークが広がりまして、92年には、自分が実行委員として、自宅を事務局にして、5000人規模の参加者で、2800万くらい助成金をもらって、全国7ケ所でやるような会議を主催した、これは私にとってものすごく大きな力になったんですが、その力とか「国立婦人教育会館」の企画したりなど、そういうことが佐賀の女性センターの館長に応募したときに認められたのかな、と思ってます。
2年4カ月、毎週飛行機で佐賀に飛んで、その間、佐賀に行くとずっと講演して回る、という生活をしていました。また、女性センターは「アバンセ」という立派な建物なんですけれども、建物というハードができても、それがどう利用されるかということが問題なので、一部の人のものであってはいけない、税金を使っているんだから、どれだけ多くの人、とくに女性センターというのですから、どれだけ多くの女性、とくに問題を抱えている女性の問題解決の場でなければ意味がない、ということで、一人でも多くの人に知ってもらおうといことで、毎月ミーティングをやって、ビラの原稿までみんなで検討する、ということやりました。それは2年4カ月の間で10年分の仕事ができたとおもうほど充実していました。やはり館長となると、自分の企画力でいろいろできる、それがすごく面白くて……。
たとえばボランティア養成講座などをやるわけです。そこに「あなたのやる気をアバンセで、見い出しませんか」なんというビラの案が出てくるわけです。しかし、40年も50年も生きてきた方に対して、そういう発想で文章を書くのは失礼だし、私の感覚ではついていけない、ボランティアというのは養成するものでもない、ということで、「県民の方の力を借りなければ事業ができないんだったら、そのことを正直に書いたほうがいいんじゃないですか」、と言って議論した結果、担当の方が「アバンセ・サポーター実習講座」と名前も変えまして「あなたの優しさとあなたの時間をアバンセに貸してください」というふうに書き直されたんですね。そういうこと一つ一つ、一体なんのためにつくられた建物なのか、ということを問いなおしていく、ということをしながら、事業部長は自分で営業部長だ、と言いながら、アバンセの月のスケジュールをスーパーマーケットにまで貼っていく、というようなやり方をしていました。
そうしましたら、佐賀など狭い県ですから、1カ所、そういう女性が集まる場所ができる、ということの意味は大きい、ということを知りました。そのことが今度国政に参加したい、と思った動機の一つでもあるんですが、夫の女性問題を十数年抱えていて、何度も命を断とうと思った、という女性の方と出会ったり、長男の嫁として、私の母もそうだったんですけれども、男の子が一人も生まれないので肩身の狭い思いをして生きてきたという女性と出会ったり……。
法律や条令だけでは平等にはなれない
私の女性問題の原点は実は母なんですけれども、女性センターの仕事をしながら実は、こういうセンターにくることもできない女性たちの、声にならない声にどれだけ私が耳を傾けることができるか、それが私の仕事、館長の役割だと思ってきました。
もし、女性が経済的に自立できていれば夫と離婚できるのに、もちろん、離婚することがすべていいうわけではありませんけれども、経済的に自立できなくて離婚できない女性というのが私の周りにはたくさんいるし、とくに私は大阪に行ってから、民間のシェルターの副代表という形で関わっていたので、夫の暴力から命からがら逃げてきた女性や、経済的に夫に苦しめられて給料から一円も生活費がもらえない、という女性をたくさんみてきて、女性が経済的に自立できるということがまず先決と思って、それも今回立候補を決意した理由の一つです。
私は松戸市をはじめ、全国のさまざまな自治体の女性政策のアドバイザーとしてプランづくりなんかに関わってきて、それはそれでいかに市民が幸せなをするか、街づくりをするか、という発想でやってきたんですけれども、男女共同参画社会基本法ができて、いろいろ地域の中で男女共同参画の基本プランができても、根本的なところで、女の人が一人でも生きていける。
もちろん、結婚して専業主婦で幸せなら、それはそれで一つの選択だからいいんですけれども、女だっていうことで男の人並みの給料が貰えない、女の人は働いていても2千万人のうち半数はパート労働で、とくにこの間、男女の賃金格差は広がっている、という事実を見たら、女性が結婚してうまくいっているときはいいけれども、離婚したり、夫が亡くなったりしないとも限らない、そういうときに安心して生きていける経済的自立をきちんとして、もし労働がパートであっても、オランダなんかはそうなんですけれども、パートでもきちんと厚生年金とか社会保障がついてくる、そういうシステムにしていかないと、いつまでたっても女の人は半人前としてしか認められないし、今のように世帯単位だったら、本当に夫との関係が悪くなったら、どうしようもない、ということを考えると、男女共同参画社会基本法はできたけれども、その中に一番大事な経済的自立の問題ということを考えたら、やはり国政の中に入って取り組んでいって、今の社会システムを、男女平等ということをベースにした社会システムにしていきたい、と思ったことが一つです。
また、今、日本が昔に返ったような歴史教科書が出てきて、今回、教育三法が変わって、次は教育基本法の改正の動きがあると。私は教育基本法というのは、戦後できた法律の中で日本国憲法と教育基本法は本当にすばらしいもので、その精神は大切にしたいと思っているんですが、教育基本法が変わってしまったら、教育委員会の枠組みまで変わえられてしまう、そうしたら、どんなに地域や自治体ががんばっても、大きなところで変えられてしまったら、どうしようもない、だから阻止したい、と思っています。
男女共同参画社会の大前提は、平和な社会
三番目は、皆さんも感じていらっしゃると思うんですが、とくに、1999年の小淵内閣のときに、国旗国歌法とか一連の国歌主義的な法律がワーッと通りましたね。石原東京都知事は平気で三国人発言をする、防災訓練に自衛隊を出してくる、今度の小泉さんは首相の就任演説で「憲法九条を変えます」と言ったり、集団的自衛権のことを言ったり、このままで言ったら、あっという間に憲法調査会が、この5年の間に憲法の前文と九条を変えるということを言っている、という中で、辻元さんなんかは、国会の中では外からみるよりも右傾化が進んでいるというし、男尊女卑も含めて、大変なことになっているというし、私もそれは私達は男女共同参画社会といって、社会に参画しようとしているけれど、私たちが参画しようとしている社会が本当に平和な社会なのか、それから集団的自衛権というのは、どういうことかというと、日本はアメリカと安全保障条約を結んでいるわけですから、別に日本がすぐに戦場になるということではなくて、アメリカは国連軍という名を借りて、いろんなところで戦争をしてきたわけですけれども、日本が集団的自衛権を認めてしまったら、日本の自衛隊がアメリカの戦争に加わって、人を殺すことができる、おそらく集団的自衛権が認められれば、自衛隊だけではなくて、兵役の義務も出てくると思うんですよ。
戦後日本が一度も戦争で人を殺すことがなかったのは、憲法の前文と九条があったからなわけで、それが今変えられようとしている、今参議院が何人か改憲派が増えれば、憲法を変えられてしまう、という危機感をもって、立候補することにしました。
今、小泉さんに首相が変わって大変な人気ですけれど、小泉さんの改革は、競争原理を導入して、弱者切り捨てであることがはっきりしている、それを、中曽根さんのときは民間活力を導入するといって、国鉄を民営化したりしましたけれど、それはまだ経済とか部分だけだったのに、小泉さんは教育とか福祉とかも民間に移行させようとしている。
何よりも許せないのは、バブルのころ儲けようとした銀行の不良債券の後始末のために、なぜ、失業者が増えたり、企業が倒産したりしなければいけないのか、どうして有権者が怒らないのか不思議なんです。
「国民の痛みを伴う改革をしなければ、ウミは出せない」というけれど、うませてしまったのは自民党の政治じゃないですか。そのつけをどうして国民に負わせようとするのか。
自分が倒産の憂き目をみることは絶対にない、生活が苦しくなることはまったくない、そういう人たちが改革を進めようとしているおそろしさを、考えないといけない、と訴えています。
ちがいがあるからおもしろい、と思える社会に
この間、竹中金融担当大臣が、高校生に「就職できないんですが」と質問された時、「だったら、ビル・ゲイツになればいい」と答えたそうですが、子どもがみんなビル・ゲイツになれますか? みんながビル・ゲイツになったら、世の中どうなりますか? 子どもの能力はみんなそれぞれ違っていて、ちがいがあるから面白い、だけど一人一人の命はみんな同じ、という人権を尊重する、21世紀の世界の流れは平和や人権を大切にする方向にいっているのに、日本だけがその流れと全く違う方向で競争原理に向かおうとしている、競争原理というのは、20世紀にさんざん私達が近代社会の中で、あるいは男社会というのは競争原理だったわけですよ、戦って相手をやっつけて、男は強くなければいけない、それをやめて男だ、女だといわず、自分らしく生きようよ、という社会にしなければいけない、と思っています。
もう一つ、私の描いている国のありかたは、地域分権で、その中で市民がどれだけ幸せを感じられるか、そのネットワーク型社会をどうつくるか、それを支えるために国はどうするのか、そこに私が20年間やってきたネットワーク、NGOの経験をどう生かしていくか、ということで立候補を決意しました。
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